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(想像できない)ユートピアへ向けて:Arthur C. Clarke, Childhood's End、三島由紀夫『美しい星』、冷戦期反ユートピア主義

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(本稿は『年報カルチュラル・スタディーズvol.5』に掲載された同名の論文と同じものです) 本稿はアーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』(1954)と三島由紀夫『美しい星』(1962)
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   1 「資本主義の終わりを想像するより世界の終わりを想像する方が容易い」( Jameson 2003 )いう決まり文句はフランシス・フクヤマの言う「歴史の終わり」から 20  年以上経った今ますます説得的に響く。現代におけるユートピアの想像しえなさが、フレドリック・ジェイムソンが論じるように後期資本主義による政治的想像力の囲い込みによるものならば、どうしたらその外部に出られるだろう?   近年の批判的ユートピア研究の教えの一つは、ユートピアとは理想社会の青写真ではなく、現実の歴史・社会状況を引き受けた上で社会変革の具体的道筋に焦点を当てる実存主義的営みだということだ( Rogan 2009:313 )。であるならば、後期資本主義が支えるリベラリズムのイデオロギーによって囲い込まれた想像力を乗り越えようという試みは、私たちはいかにして今いる場所に来たのかを問い、自らの想像力の形式それ自体を歴史化することから始めなければならない。   本稿はアーサー・ C ・クラーク『幼年期の終わり』  (1954) とそれへの応答として書かれた三島由紀夫『美しい星』 (1962) の比較分析を通じて 1) 、リベラリズムの文化によって縁取られたユートピア想像力の限界とその外部の可能性を考察する。冷戦初期を代表する文学的、 、 、な SF  である『幼年期の終わり』と、同時代の SF  というジャンル自体への再帰的意識を特徴とする『美しい星』は、ユートピアに対する強い懐疑を共有する。両作品を徴づける反ユートピア主義は、冷戦初期 SF に通底するリベラリズムの文化イデオロギー、つまり自らを脱イデオロギー的なものと呈示する心理学化されたリベラリズムの徴候である、というのが本稿の前提となる主張である。このため 1 節では冷戦初期 SF の文学化=心理学化という構造変化を、同時代の文化社会批評、社会心理学・発達心理学、脱植民地を巡る第三世界言説という複数の領域の絡み合いから分析する。 2 節では『幼年期の終わり』における反ユートピア主義をリベラルな帝国主義批判と位置付け、これがいかに同時代の第三世界言説と共犯関係を取り結んでいるかを論じる。 3 節では『美しい星』におけるユートピア構想が作品の構造によっていかにアイロニー化されているかを論じた後、   2 こうした反ユートピア主義が乗り越えられる可能性を、入会闘争という歴史性によって穿たれたテキストの間隙に着目して考察する。   1 50 年代 SF の文学化:脱イデオロギー的リベラリズム   国際的ベストセラーにして SF 研究でもキャノン的地位を持つ『幼年期の終わり』と、三島唯一の SF 小説にして彼の作品では比較的マイナーな『美しい星』は、ある意味極めて対照的な存在だ。またその深い影響関係にも拘わらず両者の比較研究はなされていない。従って以下ではまず両作品の同時代性、具体的には冷戦初期における SF 小説とリベラリズムの文化イデオロギーの連関という歴史的文脈を確認したい。  50 年代、 SF は文学化、 、 、する。 SF が単なるパルプフィクションでない「主流文学」としての美学様式を獲得するのは一般的には 60  年代のニューウェーブ以降とされるが、こうした変化は実際には 50  年代に端を発するものだ( Latham 2009:83 )。『マガジン・オヴ・ファンタジー・アンド・サイエンス・フィクション』( 1949 )などの大人向け SF  雑誌の刊行、ペーパーバック革命による市場の拡大と雑誌の意向から独立した単行本執筆、アカデミズムへの参入などにより、 50 年代の SF は産業としてそして美学的に著しく自律化する( Latham 2009:80-85 )。言わば SF は、ドワイト・マクドナルドが midcult と呼んだ「高級文化と大衆文化のハイブリッド」であるミドルブラウ文化となったのだ( Macdonald 2011:31-2 )。 midcult  によって高級文化の自明性が脅かされているというマクドナルドの意識は、クレメント・グリーンバーグらの美術批評やライオネル・トリリングらの文学批評など領域横断的に共有された、冷戦初期の規範的文化言説だった。 2)  SF の文学化とはすなわち、疎外された少数の知識人/不活性な大衆という感情構造の SF 産業内   3 部における再生産に他ならない。それゆえレイモンド・ウィリアムズが指摘したように、「知識人/大衆」という構造は冷戦初期の SF において支配的な形式・主題となる( Williams 1988:356-8 )。「圧倒的な知的能力」( Clarke 1990:12 )を持つオーバーロードと自律性・個人性を喪失した地球人の対立を核にする『幼年期の終わり』はその好例と言える。 2  節で論じるように、オーバーロードがもたらしたユートピア社会の唯一の問題はそこに生きる地球人の不活性さであり、「退屈」( Clarke 1990:82 )という社会的病だからだ。大衆から疎外された少数の知識人という形象は作中の主要な地球人の人物造形においても繰り返される。例えば第 1 部の中心であるリッキー・ストルムグレンは、 NY  国連ビルの高層階から群衆がデモを起こす路上を見下ろしつつ「同朋の人々からこんなにも高く離れたところで働くのは良いことなのか」( Clarke 1990: 6 )と悩み、第 3 部の中心であるジョージ・グレッグソンが加入するニューアテネは「その他の人類に若干の軽蔑を抱く、進歩の前衛であるエリート」( Clarke 1990:195 )である。「俗衆」に対し「知的選良」(三島  2001:8 )を抱きつつも彼らを救おうとする大杉一家の物語である『美しい星』もまた、宇宙人=疎外された知識人/地球人=大衆という階級構造を核とする。だが多くの研究が指摘するように、三島のテキストはむしろこの構造を戯画化し、宇宙人=エリートであると信じた大杉らが実際には地球人=大衆であることを、例えば一家が乗るフォルクスワーゲンという大衆車の形象により絶えず前景化する 3) (後述のように『美しい星』は純文学問題を巡る戦後日本固有の文壇状況で書かれたものであり、単純に英米 SF を取り巻く状況と同一視できないが)。  SF  の文学化が同時代の文学・文化言説の支配的な感情構造と深く結びついたものである以上、 SF  の変化は冷戦期イデオロギー対立という、より広い歴史状況との連関から考えられなければならない。端的にいえば、 50  年代 SF  が目指した文学性とは冷戦期リベラリズムの文化イデオロギーに他ならない、というのが本稿の主張である。 50  年代の規範的英米文学批評において、トリリングらが伝統の読み直し   4 を通じて主張した純文学=モダニズムの美学的自律という文学性は、大衆文化だけでなくマルクス主義を代表とする政治イデオロギーや社会リアリズム文学との差別化によって担保される( Schaub 1991: 7-48; Jameson 2002: 164-5 )。疎外された知識人=高級文化/受動的な大衆=大衆文化という感情構造は、ひとえに大衆の「受動性」を共産主義に影響されかねないリスクと見做す反共リベラリズムの表れだ( Corber 1993:2-3 )。かくしてトマス・ショーブら近年の冷戦文学研究が明らかにしたように、冷戦初期を代表する文学作品や批評言説は社会主義のイデオロギーと社会計画に基づく抜本的な社会変革への幻滅に根差した「洗練された」リベラリズムに支えられる( Schaub 1991: 7 )。トリリングらの文学批評、グリーンバーグらの美術批評、アーサー・シュレジンジャーらの社会政治批評などにまたがるこの新しいリベラリズムは、社会改革の意図を持ちつつも、その核を特定の政治信条ではなく「心のあり方」に求める( Schaub 1991: 4-5 )。一言で言えばこれは、トリリングが「文化の政治」と呼ぶところの、自らを非イデオロギー的なものとして提示するリベラリズムである( Trilling 2008:xvii )。ショーブらが指摘するように、この「洗練されたリベラリズム」を支えるのは、精神分析やフランクフルト学派の文化理論を経由した政治の心理学化(あるいはマルクスのフロイト化)という枠組み、すなわち政治・歴史・社会経済的な事象を心理学の語彙とカテゴリで解釈するパラダイムである( Schaub 1991:10 )。同時代の社会心理学・発達心理学の発展と密接に結び付いた新しいリベラリズムは、政治イデオロギーや階級構造、計画経済といった語彙・言説それ自体をイデオロギー的=共産主義的として退け、自らを脱イデオロギー的な、身体そのものにまつわる自然な政治であると提示する。新しいリベラリズムとは政治ではなく生政治なのだ。 4)   つまり私の主張は、 50 年代 SF の文学化とは、冷戦期リベラリズムの規範的文化言説による文学性の脱政治的な再定義を継承した、 SF  の心理学的転回だということだ。シオドア・スタージョン『人間以上』   5 (1953) や本稿で扱うクラークの作品のタイトルが示すように、発達や成熟を中心的な主題とした 50  年代 SF  小説は同時代に制度化された発達心理学と強く共鳴する。これを確認するため、以下では冷戦期における心理学・社会心理学、リベラリズムのイデオロギー、そして SF の密接な結びつきを素描したい。   社会心理学とリベラリズムの最も顕著な交点は、デイヴィッド・リースマンらが焦点にした個人主義/順応主義という問題系である。知識人/大衆という感情構造の変奏でもあるこの言説は、精神分析の語彙を援用し、自由で個人主義的でイノセントな(=多形倒錯的なセクシュアリティを持った)社会化される前の子供/社会に順応し抑圧された大人という図式を繰り返し強調する。 5) リチャード・キングらの研究が解き明かすように、ここで賭けられているのはリベラリズム/共産主義という政治イデオロギーの対立を個人の身体やセクシュアリティの次元に変換する心理学化=生政治化の論理である。同時代に最初の著作である『精神疾患と心理学』 (1954) を執筆したミシェル・フーコーの仕事や、少年少女の非行の社会問題化に呼応する形で、管理社会・制度による個人の抑圧という心理学的問題系は冷戦期文化言説の中心的主題となり、搾取構造による疎外や、商品経済の論理による物象化といった社会・経済的問題系を置き換えていった( Schaub 1991: 17-24 )。果たして 50 年代の SF 作品は、フィリップ・ディックやレイ・ブラッドベリの初期の著作に特徴的なように、管理社会というディストピアへの執着を大きな特徴とした。主に大企業資本主義を直接の批判対象とするこうしたディストピア小説は、副次的にしか反社会主義ではない「反制度主義」テキストではある( Jameson 1994: 63 )。だが管理社会による個人の抑圧という問題の中心化はそれ自体、問題なのはイデオロギーではなく生の管理なのだという脱イデオロギー的なリベラリズムのパラダイムの表れに他ならない。   また個人主義/順応主義あるいは管理社会という問題系と呼応しつつ発展した発達心理学の言説は、国際関係の文脈においてリベラリズムのイデオロギーを規範化するうえで大きな役割を果たした。とりわ
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